「ニナ・メンケスの世界」と題された三作品を1日で鑑賞し、どっぷり世界観に浸かりました。
かなり不思議な鑑賞後感で、見ている間は少し退屈なところも正直あったのですが、時間が経つごとに胸に迫るものがジワジワと押し寄せてきました。
もう一作の『クイーン・オブ・ダイヤモンド』と同様、監督の妹、ティンカ・メンケスが主役を演じています。
目次
殺人の容疑をかけられて逮捕された娼婦アイダを主人公に、孤独な女性が生きる残酷な現実世界と内なる心の世界を、時系列を曖昧にしながら詩的な映像で描き出す。メンケス監督の妹ティンカ・メンケスが主演を務めた。1986年製作/90分/PG12/アメリカ
『映画.com』より引用
原題:Magdalena Viraga
配給:コピアポア・フィルム
劇場公開日:2024年5月10日
物語ではなく、詩の断片を観ているような体験で、かなり前衛的でした。
娼婦であるアイダが、身体も心もすり減らしながら、次々と客を取っていきます。
感情を排した無表情で男たちの相手をする彼女ですが、そうすることで自分の心を守っているように見えました。
こちらにアイダの感情が流れ込んできて、自分まで感情を麻痺させようとしていることに気づきます。
娼婦という仕事を強烈に憎む一方で、男たちの欲求の中でしか生きられない辛さ。
怒り、あきらめ、虚しさ、閉塞感という精神的苦悩と、身体を売る肉体的苦痛の先にあるのは「わたしはここにいる、わたしはここにいない、私絶対に縛らないで…」という心の叫びです。
同業の友人と心を通わせ、内的世界・精神世界を共有する場面は、心を保つ唯一の術として彼女を支えています。
ひとりの男が殺されるという事件があり、その犯人は結局誰だったのか? 裸の女は実在したのか?
私が見落としているだけかもしれませんが、明示されていないように思えました。
裸の女がどのような存在なのか、受けとめ方はいろいろあります。
私は、娼婦たちの共通意識が具現化したものかな? と感じました。
しかしよく考えてみれば、名もないひとりの客が「誰に」殺されたのか、たいして重要ではない気がします。
キービジュアルとなっている羽根を携えた姿はとても美しく、何者にも侵されない彼女の心の奥底を表現していると感じました。
淡々と静かに見える映画に見えて、かなりの凶暴性を秘めていて、ニナ・メンケスは何か相当な怒りを抱えているのだろうか?と考えてみたりしました。
あと、演じているニナ・メンケス監督の妹であるティンカ・メンケスのメイクや表情が素晴らしくて痺れました。
監督と姉妹であるため、自由で密なコミュニケーションがあったと思われます。
監督のイメージを極限まで具現化した表現をされているに違いないと感じました。
アート映画であり、台詞は詩のようで、場面のつながりも前後します。
誰が何をしたか、少しわかりにくいところもありましたが、闇を深め、破滅に向かう彼女の姿を見て、それを考えるのもあまり意味がないことかもしれないと感じました。
それにしても、ニナ・メンケス監督が20代でこの作品を撮ったことに驚きます。
このヘビーな内容をイメージした理由が知りたいと、ふと思いました。
ちなみに、一般の方々がどのような感想を持たれているのか知りたいと思ったのですが、みんな詩みたいな文章を書いていて、余計にワケがわからなくなったので、読むのをやめました(笑)
暴力性と心の支えとなるシスターフッドの狭間で揺れる、女性の孤独、という映画でした。
いやぁ、いろんな映画があるものだなぁと驚きました。