『生きる』(1952) 感想文・黒澤明監督の方

71年前の映画、もちろんモノクロです。私もそこそこ古い人ですが、昔だな〜と感じます。

一方、戦後わずか数年にもかかわらず、復興、文化面の繁栄にも驚きました。

その時代の生きる意味とはどのようなものだったのか、という興味で鑑賞してみましたが、現代と変わらない普遍的な人間の姿があり、どこかホッとしました。

変わるのは難しい

主人公は日常に埋もれて、日々お役所仕事に明け暮れます。

しかし、病を機に、考え方生き方を見直し、人間らしくありたいと変わりました。

公園作りという仕事を成し遂げてこの世を去っていくわけですが、人としての崇高さが表現されていて、しみじみと感じ入りました。

また、官僚主義にまみれた人々への痛烈な批判精神も表されていて、共感する部分も多いです。

口では「よくやった」「立派だ」「自分も」と称賛する人々。

しかし一夜明ければ、また元通りの仕事。自分を変える行動は、口で言うほど簡単ではないのです。

死が目前に迫るほどでなければ、自分を変えることはできないのかもしれない…という厳しさを感じました。

主人公が中盤でナレ死

余命わずかと知り、どう生きるか、そんな映画は数多くあります。

『生きる』はそれらの原点でありながら斬新な構成で、中盤で主人公が亡くなります。

「渡辺は死んだ」遺影。えー! この後どうなるの? と驚かされました。

渡辺は自分の仕事を達成して亡くなり、その生き様を、残った者がどう捉えるか? という「こちら側への問いかけ」が残り半分なのです。

ブランコに揺られて何を思ったか

主人公の渡辺という男は、余命がわずかだろうと悟ったところから、豪遊し、元部下の女性につきまとい、いささか言動がおかしな人にも見えました。

残りの人生をどう生きるのか、じたばたとあがき、模索する苦しさが、滑稽にも見え、人間の弱さ、もろさがにじみ出ます。

しかし、そのままで一生を終わらなかったところが、彼の平凡ではなかったところです。

・はるか年下の女性に、素直に問いかけ、気づきを得たこと。

・そこからすぐに、考え方、生き方を変えたこと。

・誰の評価も考えずに、自分の信念に従って、自分の仕事をしたところ。

渡辺という人間の、本来持っていた誠実さが、病をきっかけに発現したのです。

雪の降る中、自分が作った公園のブランコに揺られて「ゴンドラの唄」を歌うシーンはとても有名。

残り少ない命を燃やして、自分の仕事をやり遂げた。

それこそが探し求めていた「生」だったのだと、人生を味わいつくした瞬間だったのではないでしょうか。

まとめ

決意した瞬間から、人生は変えられる。

どれだけ生きるかより、どう生きるかが大切。

そのようなことをこの映画から考えました。

新たな『生きる LIVING』が、カズオ・イシグロ脚本によりイギリスを舞台に製作されて、公開されています。

70年を経てのリメイクに驚きもありましたが、普遍的なテーマを現代にどう変換して表現されているのか、とても興味深く、近々見に行く予定です。

その感想もまた後日書くことにします。

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