【ネタバレありとさせていただきます】
思春期を迎えようとする娘とその父親。父親側は心に何か問題を抱えており、両親は離婚し普段は離れて暮らしている。デリケートな問題を抱えながらも、ひと夏のバカンスを二人で過ごす話です。
11歳のソフィが31歳の父親と過ごしたトルコでの夏休みを、20年後に同じ年齢になったソフィが振り返ります。当時のビデオテープから思い出を紐解く、叙情的な手法です。
冒頭から淡々と親子のバカンスの映像でつづられるので、正直、眠くなったのですが、退屈したわけではなく、なにか「心地よい、安心感がある」感覚から来るものでした。
しかし途中から父親のカラムに「あれ?」と思う様子が垣間見えるようになり、「そういえば冒頭のあれはどういう意味?」とさかのぼってあれこれと気になり始め、いつの間にか強く引き込まれていました。
父親の立場
娘のソフィと過ごしながらとても感情が揺れていることがわかります。おそらくずっと死というものを考えて、考えては打ち消し、を繰り返していたのです。
その原因は明かされませんが、仕事の不調、妻子との別れ、貧困、同性愛、そして心身の病の可能性もあるでしょう。
印象に残ったのは、カラムのとてもぎこちないダンスです。それはそのまま彼の生きづらさを表しているようでもあり、ソフィを楽しませようとするありったけの親心のようにも見えました。
一方で、ソフィから誘われたカラオケは頑なに拒み、時にすれ違う二人の関係も見て取れます。
ソフィが歌ったのはR.E.M.の「ルージング・マイ・レリジョン」。絶望を歌った歌詞で、カラムは苦しそうな表情を浮かべます。
たとえひと時でも、娘との思い出づくりのために精一杯耐えた若い父親。ソフィの前ではとてもいい父親だったと思います。
娘の前で父親らしくありたいという気持ちと、おそらく心の病との間で葛藤している姿が、私にはたいへん切実に感じられて、共感できました。
娘の立場
娘ソフィの気持ちというのも私なりに感じ取ることができました。
時折父親に不穏なものを感じているし、本当は両親と一緒に暮らしたい気持ちもありながら、どうすることもできず、明るく振る舞ったり「もっと居たい」と言ってみたり、彼女は自分なりに父親を救おうと努力しているのです。
漠然とした不安の一方で、自分自身は大人になろうとしている時期でもあり、ソフィもまた大人と子どもの間で揺れ動いています。
本当は大人が考えるよりはるかにいろいろなことが分かっているのではないか、と思ったりもします。それだけに切ないですね。
大人になったソフィの立場
ダンスフロアのフラッシュの中で、現実にはあり得ないことですが、カラムと大人のソフィが同時に存在する場面があります。
決して明るい表情ではなく、悲しそうな目で父親を見つめるソフィ。
父と同じ年齢になり、ようやくその苦しい胸の内が理解できるようになり、当時のビデオテープを見ることで、さまざまなことが理解できたのでしょう。
その時できる精一杯の愛情をもらったという感謝や、自分の存在で父親の死を引き止めることができなかったという悲しみ、一緒にいながらどうしようもできなかったやりきれなさ、父親の抱えていた苦悩への共感など、複雑な感情がそこにあったはずです。
私が最も気にかかったのは、大人のソフィが幸せそうな、明るい表情ではなかったこと。
カラムはおそらくその後亡くなってしまったのでしょうが、それが20年経ってもまだ未消化なのか、自分が止められなかった後悔なのか、何かしらの傷を引きずっているようです。
できれば、父親への思いを感謝に変えて現在を生きていると感じられたら、後味がずいぶん変わっていたはずなので、そこが少し残念なところです。
さいごに
それぞれの心の中は、言葉では一切語られず、表面的には父娘のバカンスの映像というだけの作品ですが、とてもさまざまな感情を想起させる、優しく繊細な、すばらしい作品でした。
もう一度見ればもっと気づくところがありそうなので、いつか2回目を鑑賞しようと思います。
少しつらい話ですから、深く共感してしまいそうな方には、あまりおすすめできませんが、興味のある方はぜひごらんください。