『熊は、いない』感想文・熊は出ませんが熊とは何かを考える映画でした

これは今年のフェイバリット10位には入る、大好きな映画となりました。観ようかどうしようか迷っていましたが、本当に観てよかったです。

国際政治的なことには疎くても、映画として楽しむ一方で強烈な問題提起を感じました。ジャファル・パナヒ監督の身を呈した覚悟に心打たれました。

また、飄々と流れに身を任せ、役柄の監督業に専念してみせる、役者としてのパナヒ監督。一見、可愛らしいおじさんなのに、すごい方だと驚嘆です。


概要

イラン国境近くの村から、リモートで映画を撮るパナヒ監督(本人)という設定。内容は、偽造パスポートで国外逃亡を計画する男女のドキュメンタリー映画。

一方パナヒ監督は滞在先の村において、自由恋愛が許されないカップルの証拠写真を偶然撮り、トラブルに巻き込まれていく。

主人公のパナヒ監督は実際に「イラン国家の安全を脅かした罪」により2010年に20年間の映画製作禁止と出国禁止を言い渡された。

しかし、抑圧に屈せず、イラン社会の現実をテーマに極秘裏に5本もの映画を撮影し、世界的に評価されている。

ちなみに長男のパナー・パナヒ氏も2021年に映画監督としてデビュー。


物語上でパナヒ監督が滞在している村は、のどかで村人も穏やかに一見思えました。しかし、心の中では因習にとらわれ、若者は抑圧され、昔ながらの慣習から逃れられないという、閉塞感を抱えていたのです。

「熊はいないが、いることを信じる迷信はある」

「怖がらせて力を得る者がいる」

熊とはもちろん比喩的なもので、見えない圧力、因習、しがらみ、ムラ意識、変えられない価値観など、形のないものだと思いますが「いないけれどいるものとして暮らす」のが、この村で生きていく術であるのがまず第一に怖いです。

外部者であるパナヒ監督(本人)は村でのトラブルに対して、淡々と振る舞い、トラブルの元を回避し、村人の言う通りに行動します。慣習を破ると命の危険さえある、異常なしきたりを目の当たりにしても、自然に受け止めている…これがさらに怖いです。

自由恋愛もできず、村から出ようとすると殺されるような閉鎖的な村は、イランという国の姿を投影しており、それがいかにおかしいことなのかという問題提起を映画という手法で表現するパナヒ監督。

自分の国の暗部をこうして世界へ発信することは、大変な葛藤や勇気が必要だと想像します。

とても厳しい実情を描いている中で、時にユーモアも交えて、しみじみとした面白みもあり、娯楽映画として完成させているところが、大変な手腕とお見受けしました。

因習に従い、国に従っていれば問題なく暮らせても、一歩外れようとすると恐ろしい運命が待っているという怖さ。ラストは唖然とする結末でした。

熊…いると信じて恐れて暮らすのか、いないと分かって危険な道を選ぶのか、または、いるものだと人を恐れさせて上に立つのか。

いないものはいないと言って人々が晴れやかに暮らせる日が来るかどうかは難しいと思いますが、ジャファル・パナヒ監督には今後もどうかご無事で、優れた映画を撮り続けてほしいと願います。

非常に考えさせられる、よい映画でした。