悲喜劇とのことで劇場内は時折笑いも起こっていました。しかし…こういう話、なくもないよ…と思いながら見ていた私は、恐ろしくて笑う気にはなれませんでした。
我慢の限界を超えて人との関係を絶つ可能性も、逆の立場になる可能性もあるのではないでしょうか。世間でも突然別れを切り出された、などという話は珍しくありません。
思うところの多い作品でした。2023年度アカデミー賞、ノミネート9部門(1位11部門に次ぐ2位)の話題作です。
あらすじ
1923年、アイルランドの孤島であるイニシェリン島が舞台。本土は内戦が勃発し、海の向こうに砲撃の様子が見える。純朴な男パードリックは、長年の友人であるコルムをいつものようにパブへ誘うが、コルムは突然友人関係をやめると切り出す。動揺したパードリックは関係修復をはかろうとするが、事態は悪化するばかり。やがてコルムから「これ以上自分に関わると、自分の指を切ってお前に投げつける」と宣言されてしまう。
ある日突然の、絶縁
コルムが突然、絶縁を宣言したことに、違和感を覚える方もいるかもしれません。または、なんとか修復しようと奮闘するパードリックに「もう、いいじゃん。そっとしておけば…」と思うかもしれません。
どちらにより強く共感できるか、人によって見方が違うと思います。
私はどちらかというと、コルムの気持ちがより理解できました。確かにやり方が不器用ではあります。ただ、残りの長くない人生を何かに賭けたいという気持ち、無駄話をしている時間が惜しいという焦りを、私も感じることがあるのです。
年上のコルムの気持ちが、若いパードリックには理解できなかったのもわかります。
関わったら「自分自身の」指を切るという発想や、ボコボコにされたパードリックを無言で助けたことなどから、コリンはパードリックを心底嫌っていたわけではないのかもしれません。強い拒絶の中にも、かつては友人だった男を傷つけたくない気持ちが見え隠れします。
互いに言っていることがそのまま真実ではない、と二人の佇まいからうかがい知れました。
「否認→怒り→取り引き→抑うつ→受容」の5段階」
中年男性同士のケンカ別れの話、と聞けばくだらなく見えますが、それが次第に決定的な収拾のつかない事態に発展していきます。この流れはキュブラー・ロス著「死ぬ瞬間」における「死の受容の過程」(「否認」「怒り」「取り引き」「抑うつ」「受容」の5段階)と同じだと感じました。
主人公パードリックはまさにこの経過をたどり、友人関係が「死んで」いくさまが見事に表現されていたのです。
「否認」なにかの間違いではないか?
「怒り」昨日までの友人がなぜそんなことを言うのか! 俺が悪いのか!
「取り引き」友人や妹を介して、あれこれと策を講じる。
「抑うつ」喪失感が強くなり、気分が落ち込む。
「受容」決裂を自覚し、手段に出る。
人間の秘めたる狂気
のどかな田舎町で退屈なほど平凡に暮らす人たち。私はこのような景色を先日見たような気がしました。それは「ドリーム・ホース」という映画で、ひとりの主婦が共同馬主という制度を思いつき、村人と共に胸の高鳴りを得ていく爽快なお話でした。
こちらはまるで逆、どちらもすごく面白いのですが、なんと対象的なお話でしょうか。そもそもコルムが絶縁を言い出さなければ? パードリックがすぐに受け入れていれば? 何も起こらずに平凡な人生を終えていたかもしれない二人です。
気持ちのズレが大きくなるにしたがって、それぞれの秘めた狂気が呼び起こされる。そんなことがあなたにも私にも、あるかもしれませんよと問いかけられているような気がしました。
仲良くしている隣人や友人がもしも…と考えるとゾッとします。
人間関係は薄氷の上を歩くようなもの
いくら近い存在でも、結局は他人。本当の気持ちなどわからないのです。夫婦ですら意外とお互い何を考えているか、分かっているようで分かりません。
相手も自分と同じように思っていると考えるのは間違い。時々そんなことを自覚するのも大切なことです。
私はこの映画を見ている間中、美輪明宏さんの言葉をパードリックに教えてあげたい気持ちでウズウズしていました。それは「人間関係で一番大事なのは、腹八分ではなくて腹六分」という言葉。
ただ腹六分では足りない、お腹いっぱいになりたい、というのも人の欲望としてありますよね。難しい話です。
まとめ
遠くに見えるアイルランドの内戦とはもちろん対比させているでしょうし、田舎の閉鎖的なコミュニティでくすぶるうっ積した各々の思いと闇、島と同化し考え方を更新できない主人公の悲しさ、心のよりどころを失った時の危うさ、もろさなどを感じた作品でした。
「この映画一体何なんだろう?」というところから、いろいろと思いを巡らせるのが面白かったです。深堀りするのが好きな方におすすめ! アカデミー賞の結果が楽しみです。